パリオリンピック、盛り上がっていますね。
結果のいかんに関わらず、一生懸命な選手の姿に心を打たれるかたも多いのではないでしょうか。
オリンピックでは、勝つ者がいるならば、必ず負ける者がいます。
多くの選手がこのオリンピックで「勝つこと」を目指して
長い間とてつもない努力を重ねてきたのだと想像します。
スポーツのみならず
芸術分野のコンテストなどでも
呼び名(大賞とか、金賞とか)は違えど「勝ち」に似た結果が出ますね。
スポーツやコンテストなら趣旨からして
勝ち負けなどの捉え方や結果が生まれるのは当然と言えます。
そして、一生懸命な選手の姿に心打たれつつ
「人生は『勝ち負け』で表せるものでは決してないよなあ……」と思うかたも多いのではないでしょうか。
人生が「勝ち負け」ではないのだとしたら、あなたにとって人生とはどのようなものでしょうか。
スポーツなど:「他者との比較」+「ルールやものの見方」=勝ちor負け
勝ち組・負け組という言葉が世間でよく使われるようになってから久しいですし
もっと日常的には「言ったもん勝ち」「楽しんだもん勝ち」といった言葉もよく使われますね。
それでも、わたしはこのような言葉さえ不要であり
人生や日常は「勝ち負け」ではないと、心から思う者の一人です。
「勝ち負け」というとらえ方は他者との比較と
一定のルールやものの見方の中で序列をつけた結果によって生まれます。
「他者との比較」+「ルールやものの見方」=勝ちor負け
上の図式はスポーツやコンテストで考えるとわかりやすいですし
カードゲームなどでもこのような図式で勝ち負けが決まることは明らかでしょう。
しかし
もしここでルールやものの見方に一定の決まりがないとしたら
競うことそのものが不可能になるのは簡単にお分かりいただけると思います。
例えば、100メートル走においてだれが一番速いかを競うとき
一人はスポーツシューズを履き
一人ははだしのまま
一人は下駄を履くとか
一人はスポーツウェアを着て
一人は恐竜の着ぐるみを着て
一人は十二単(じゅうにひとえ)を着て……というとき
こんな競いかた、速さを比べるうえで意味があるの?
これではだれが一番速いかそもそも比べられないのじゃない?と疑いたくなるでしょう。
人生は他者との比較がそもそも不可能。つまり勝ち負けの図式が成り立たない
さて人生においてはどうでしょうか。
ひとりひとりの人生は「他者との比較」が可能でしょうか。
なお比較は、一定のルールのもとでのみ可能であることは
これまでのお話でお分かりいただけていると思います。
人生という道のりを行くとき、あなたと他人は同じ靴を履いているでしょうか。
人生という道のりを行くとき、あなたと他人は同じ道や同じ地面の上を、同じ衣服で歩いているでしょうか。
人生という道のりを行くとき、あなたと他人はまったく同じでしょうか。
当然、同じではありませんよね。
誰しも他者と異なる条件や背景を持っています。誰一人同じ人物は存在しません。
あなたと他人は条件や背景が異なっているので比較は不可能であり
無理に比較したところで、その比較にほとんど意味はない(比較ができない)でしょう。
つまりひとりひとりの人生は「他者との比較」で捉えられるものではありません。
よって人生においては
「他者との比較」+「ルールやものの見方」=勝ちor負け という図式は成り立ちません。
なぜなら「他者との比較」部分がないからです。
では人生が勝ち負けではないというなら、どう表されるのでしょうか。
では、あなたにとって人生とは? それに気づくことの意義とは?
では、あなたにとって人生とはどのようなものでしょうか。
私なら次のようなことです。
自分に気づき、自分になり、自分でありつづける
そしてその自分を生かして何かに貢献し
そこからさらに気づき、自分を超えていこうとする道のり
現在はこのように考えています。
(なお、この考えを体現したもののひとつが「あなたとみち応援室」です。)
さて、あなたにとって人生とはどのようなものでしょうか。
この問いに対する回答は、人によって異なると思います。
あなたにとってのこたえをじっくり考えてみませんか。
あなたにとってのこたえにたどりつく、気がつくことは、
あなたが人生を生きていくうえで
かけがえのない道しるべとなってくれるはずです。
もし一人ではこたえが見えない、聞こえない、感じられないなら、
信頼のおけるご友人やご家族などに聞いてもらうのはとてもいい手段です。
もし、聞いてくれる人、話せる人が見当たらないときは、カウンセラーであるわたしを頼ってください。
あなたがはなせるよう、しっかりとお聴きいたします。
ご一緒に考えていきましょう。
この記事があなたのお役にたてましたなら幸いです。