生きていると、いろいろなことに出会います。
「犬も歩けば、棒にあたる」
ことわざにも言われるように、あなたにもわたしにも、生きている間、あまたの出会いと、出来事がありますね。
出会うもの、こと、人、環境が、自分にとって快適なものばかりであれば
生きていることが苦しい、という思いは抱きにくいと思います。
そういうとき「生きることに意味はあるのか?」という問いは、おそらく心に浮かびにくいでしょう。
この問いが心に浮かばない人は、このあとを今読み進める必要はまったくありません。
反対に
この問いが心に浮かぶあなた、
この問いに対する自分なりの理解を得たいあなたにこそ、読み進めていただきたいと思います。
「生きるって、大変」
「生きるって、辛い」
「生きるって、悲しい」
「生きるって、苦しい」
嘆きたくなる日もたくさんあると思います。
人生は快適な日ばかりではありません。
辛い状況が続けば「生きることに意味はあるのか」と問いたくなる日もあるでしょう。
私たちが生きることに意味はあるのでしょうか。
意味はある
まずはじめに、声を大にして、このことをお伝えしなければなりません。
「生きることに意味はある」
これは、どんな人にも共通です。
どんな人でも、です。
あなたには、生きる意味があります。
意味ってそもそも何?
さて、意味とはどういうことでしょうか。
「生きる意味」というとき、「意味」は「意義」に近いとらえかたをしていると思われます。
意義という語は国語辞典(「新選国語辞典第六版」(小学館))において次のように説明されています。
【意義】①ことばの内容。意味。わけ。②ねうち。価値。
この場合、どちらかといえば、「②ねうち。価値。」でとらえるほうが、しっくりくるのではないでしょうか。
パン屋さんは「ねうち。価値。」を自分で決める
唐突ですが、あなたはパン屋さんです。
お店の経営者であり、パン職人です。
想像してみてください。
自分の作ったパンを自分のお店に並べます。
値段はいくらにしますか?
なんという名前にしますか?
「材料費、燃料費、人件費……もろもろを合わせて考えるとこのくらいの値段かな?」
「競合他社がこの手のパンをあの値段で売っているから、当店ではこのくらいの値段にしようかな?」
「研究を重ねてようやく開発したパンだから、このくらいの値段にしよう」
「名前は、●●だ!」
いろいろと考えて、ふさわしい値段、ふさわしい名前を付けると思います。
もし他人(お客様など)があなたのパンに値段を付ける、というやりかたにしたらどうでしょう。
ある人は200円、またある人は600円、またある人は800円と、さまざまな値段が付く可能性があります。
他者は他者なりの価値観をもって値付けをするからです。
お店としてはけっこう不都合です。
(お客様が値段を決めるやりたも実際に存在しますが、
多くはお店側がさまざまな要素を勘案して自ら付けているということには、ご納得いただけると思います。)
名前だってそうです。
「安っぽいパン」「毎日食べたいあっさりパン」「高級しっとりパン」「にこにこパン」
他者は他者なりの価値観をもって名付けをするでしょう。
ひそかにどう呼んでもらっても構いませんが、一つ決まった名前がなければお店としては不都合ですよね。
あなたのパンですから、
店主であるあなたが望む値段、望む名前を付けるのがごく自然で、お店としての仕事や経営がやりやすいはずです。
「ねうち。価値。」は自分で決めていいのです。
名前も自分で決めていいのです。
生きる「ねうち。価値。」は自分で決める
パン屋さんの想像はいったん終了しましょう。
はじめの問いに戻ります。
生きることに意味はあるのか?
この問いを、これまでの話をもとに
「生きることに意義はあるのか?」と、「意義」でとらえてみましょう。
そして、意義は「ねうち。価値。」と言い換えます。
すると、
「生きることにねうち、価値はあるのか?」
……なんだかとっても変な問いになりました。
「生きることにねうち、価値はあるのか?」
自分で自分にこんな問いを発するのって、奇妙に思えませんか?
改めてパン屋さんを思い出してください。
「自分のパンにねうち、価値はあるのか?」
パン屋さんは、自分で値段を付けるのでしたよね。
付けないと、お店は不都合でした。
付ければ、お店としての仕事や経営がしやすいのでしたよね。
「自分のパンは〇〇円で、名前は●●です」
くどいようですが、繰り返します。
パン屋さんは、自分で値段、名前を付けます。
「そりゃ、そうだ。
でも、こんなわたしのような半人前が作るパンなんて、たかが知れている。大した価値はない」
「こんなわたしの作ったパンなんて……。
どうせ世の中には一流パン職人がいて、自分のような半人前は足元にも及ばない……。
こんな半人前わたしのパンなんて値段も名前もあったものじゃないよね」
このような思いにとらわれる日もあるでしょう。
そして
「こんなわたし」の作ったパンに、意味はないのですか?
本当に
「こんなわたし」のパンには、意味がないのですか?
こんなわたしが作ったパンだからといっても、誰かのおなかを満たせるパンです。
一生懸命作ったパンかもしれません。心を込めたパンかもしれません。
もしかしたらパン職人としてはまだ半人前かもしれません。
世の中では職人として当然、上には上がいます。
その人はパン屋としてはあなたよりずっと長い経験があるかもしれず、
さらには才能もあるかもしれず、
研究や練習を重ねて現在の一流の技術を手にしているかもしれません。
ですが、それはその人のことであり、あなたのパンのねうち、価値とはあまり関係がありません。
あなたのパンのねうち、価値は自分でつけるのです。
同じように
生きることのねうち、価値は自分でつけていいのです。
というか、自分にしか付けられません。
「こんなわたしなんて……。
どうせ世の中では上には上がいて、自分のような人間はたいした価値はない……。
こんな私に生きる意味(ねうち。価値。)なんてない」
こんなふうに思ったことも、思うこともあるでしょう。
そういうときは思い出してください。パン屋さんのことを。
生きることのねうち、価値は自分で付けていいのです。
というか、自分で付けるのです。
「生きることにねうち、価値はあるのか?」と
生きることの意味について
あるかないかを問うというよりは、自分で決めるのです。
生きることの意義(ねうち、価値)はどこにある?
では、「生きることの意義(ねうち、価値)」はどこにあるのでしょうか。
探してみましょう。
パン屋さんのパンのねうち、価値でしたら、原材料費や光熱費や人件費などからそれを導き出すでしょう。
生きることの意義(ねうち、価値)だったら、どこから導き出しますか?
いわずもがなですね、あなた自身です。
生きることの意義(ねうち、価値)はどうやって見つける?
ここまで来たらあと一歩です。
これまでのあなたを振り返ってみてください。
ねうち、価値というとなんだかしっくりこない、というときは
ストレートに「意味」ととらえてもらっても大丈夫です。
探してみましょう。
過去を振り返り、今の自分を見つめ、未来のことまで想像してみましょう。
紙に書きだしてみることをお勧めします。
例えば、
「自分にはどんないいところがある(あった)だろう」
「どんなとき、意味を感じて生きている(いた)だろう」
「どんなとき、自分を嫌だと感じる(感じた)だろう」
「どんなとき、辛いと感じる(感じた)だろう」
自由に探究してみましょう。
自由に、とは言いましたが、
ただひとつだけ、このときにやってはいけないことがあります。
他者との比較を持ち出すことです。
あなたと他者を比較することは、本来とても困難なことです。
安易に他者との比較ができないにもかかわらず、わたしたちはつい比較したがります。
(ブログ「人生は勝ち負けではない……ではあなたにとって人生とは何か」も参考になさってください。)
なぜなら「比較する」という方法は調査方法としてとても分かりやすく、簡単に答えが出るからです。
しかし、あなたと他者の比較が可能になるためには、
比較要件が統一されていなければならないのですが、
統一することはおそらくできないでしょう。
個々人で抱える条件が異なるからです。
条件が異なるものを比較することにさほど意味はありません。
この時に得られる答えは、なんとなく答えらしく見えるというだけです。
おそれずにありのままの自分を見つめてみてください。
じっくりと見つめると、あなたなりの理解が見えてくると思います。
まとめ:生きる意味はある。たとえわからなくても、人生は続けられる
冒頭でお伝えしたように、生きる意味はどんな人にもあります。
今はわからない、今は見つからないとしたら、
それはあなたが気づいていないだけにすぎません。
そしてまた、意味が見出せなくても、大丈夫です。
人生は続けていくことができます。
「犬も歩けば、棒にあたる」
歩けば、何かに出会えます。
もし痛いものに当たっても、それは生きているからこそ。
たとえ意味が分からなくても、人生は続き、味わうことができます。
意味が分かるばかりが正解ではないのです。
もし、意味が見出せないことが辛い、苦しい、
もういい加減はっきりさせたい、
ありのままの自分を見つめることが自分ひとりではできないというときは
一人で抱え込まず
その思いを信頼のおけるご友人やご家族に聞いてもらうのはとてもいい手段です。
もし、聞いてくれる人、話せる人が見当たらないときは、カウンセラーを頼ってください。
あなたがはなせるよう、じっくりとお聴きいたします。
ご一緒に考えていきましょう。
この記事があなたのお役にたてましたなら幸いです。